2009/03/26

アートワーク 1

洗濯物を今年になって初めて外に干した。太陽光が一番、古代からこうして物は干されてきた。陽の気をたっぷり貯めこんだタオルやパンツはやっぱりどこか違う!午後のひととき、もうすっかり日も伸びて気だるささえ感じる。なにもかもがどうでもいいことのように、この繰り返しが意味のないことのように思えてきたり、あるはずもない楽園の幻影が過ぎる。これも時差ボケ現象の一つだろうと楽観しているが、一日中一人でいるといつか現実に戻れなくなってしまうのではないかと、雑事に追われた「充実」した日々が恋しくなってしまう。

2009/03/25

trust in


日本に行ってまず一番驚いたのは「政治(家)」の醜態、泥酔。生れながらの顔に文句を言っても仕方がないが、40歳も過ぎれば人の中身も顔面に出るというもの、一人として信用できそうな面がない。どうして学生や組合などが街頭、校内デモをはらないのだろうかと不思議でならなかった。およそ60~70年代には考えられないような状況を目の当たりにして一言、こりゃダメだと思ってしまった。現行政権に代わる「希望の光」党が全く存在しないのだから、ただ現政権打倒だけでは事は収まらない、おまけにベトナム戦争や安保や世界共産革命といった外国頼りの結束要素にかけているのも一因か、アメリカでもない北朝鮮でもない日本そのものの事、彼の頃より問題の根は深い。

すべてが組織欲とつまるところ私欲を核に物事が為され動いていく。不満分子も存在するのだろうが、個別分子を組織化することに日本民族はなれていないし、教育もあえてされなかった。詭弁と陳謝と涙ですべてが収まる国、政治家総入れ替えしかないとの印象をうけたが、問題は誰と入れ替えるかだ。たとえば中国など次の世代を担う若者たちは押し並べてアメリカやイギリスの大学で学んでやがて国に帰る。世界の位相の中で自国を見て考えるということだ。日本の政治界では世襲や書生などという過去語が今でも生きていて、その番外がタレント、留学学歴さぎし、これでは新しい意識や倫理が育つわけがない。

一概には言えないという条件でもいい、とにかくこのような世相を育む因の一つにマスコミをあげないわけにはいかない。自主検閲のもとに本義をそらすことばかり書き連ね、水道管破裂や瓦が飛んだなどと末端現象の詳細に矛先をむけることで家そのものが病んでいることを捉えないし隠す、きっと「マスコミ談合」なるものが存在するからだろう。マスコミ談合を暴くマスコミはない。

時差ボケで頭もぼけ気味、変な話になったが、旅の印象を冷めないうちに書きとめておいても害にはならないだろう。岩手産の南部鉄風鈴の隣にチロルのクリスタルが里帰りして仲間入り。風と光を音と色に変える自然の要素分解装置、風情と光情。「美しい日本」などとくだらないことを言わないで、生きる一個の人としての美意識を会得してほしいものだと、むなしいトラストイン。

2009/03/24

ねむけさまし

ねむくて、ねむくて仕方ない、でも寝ない。午後一時半、だらだらと日本職務の整理などしながら大阪城プロジェクトの視察報告に出かける時間を待っている。眠気覚ましにとカマを振りかざして庭に、本当によく切れるが気をつけないといけない、手前に引くようにして使うので脛をザクッとなんてなりかねない。

成田の飛行機事故を知った。23日の早朝とあるので、出発が一日遅れていたら大変なことになっていた。発つ前夜にも飛行機が落ちるなどと冗談のついでに話したが、ビデオを見ていて気分が悪くなった。あんな重たいものが飛ぶのだから、どんな科学的な説明をされても納得がいかない。自然の法則に技術をもって逆らっているわけだから、技術の不完全性や自然の悪遊で神話は一喝される。でも飛ぶしかない、平気な顔をしているけど毎回命がけの空の旅をしていることになるわけだ。

2009/03/23

さそい

奈良の大学に留学が決まりました、と最後に一言。その彼女と別れてからもう3年と数か月経った。グラーツ空港の税関チェックを無事通過して車に向かったがロビー内のスーパーマケットに戻った、日曜日だったことに気づき夕食の食料をと思ったからだ。入り際に目があった、大柄な美しい人、彼氏らしき男と一緒だった、3年の歳月に磨きをかけられたとでもいおうか、知的な控えめな微笑みが辺りを圧倒しているような眩しささえ感じた。写真集が出来上がり約束通り送り届けるつもりだったのにそのままになっていた。一度書いたメールが不通、住所もわからなかったためだが、いつしか機会をのがした告白のようにゆっくりと記憶から消えようとしていた、そんな矢先のことだった。

いよいよ始めなければという覚悟、脅迫めいた心持で飛行機を降りた直後のことだったので、一夜過ごしてこうして家に落ち着いてから改めてこの偶然の再会が暗示するものを追感しようとしているのかもしれない。『Memoires 1983』のもう一つの事実を清書してくれた女学生、ところどころに解読不可能の赤印が入ったドイツ語の手記をパリで日本語に訳した。そして3年、最後の新たな清書を前にして先に進めないもどかしさと苛立ちを断ち切る日本への旅でもあった。確かにあったはずの過去の未知の世界に踏み込む時が本当に今来ていることを確証するためにこの出会いをここに記しておかねばと思った。

我が家の春一番が留守中に咲きだしていた、もう待ってくれない、とどまるわけにはいかない。

sun catcher


一路ウイーンへ、さらに25分の飛行後グラーツ着。早朝の歌舞伎町を発ち、まるで太陽の光をとらえ続けるようにシベリア大地を西進、やがて「旅の終わり」を告げるような、そんな夕焼と現世の「むかえびと」に迎えられ短かかった、でも長かったような旅のひとこまに幕がおりた。


彼岸入りの時もこんな風景に出合えるのだろうか、はたして彼女は迎えに来るのだろうか?
帰還したばかりというのに、もう死のことを考えている。ここはそんなところかも知れない、まるで死者の霊閾へ踏み込んでしまったような、そこに帰ってきたような不思議な安堵感につつまれていた。

2009/03/20

kumamoto







2009/03/18

事実は?




bound for osaka



2009/03/09

飛来


2009/03/06

ひらい


シドニー動物園ではない、グラーツのエッゲンベルグ城の孔雀、雪交じりの雨から逃げるように大門にかけ込んで来たところを速射。ちょっと用事があるというので街のはずれにこの舘を訪ねた。ここには豊臣期の大阪屏風がある、というか屏風の間として壁に埋め込まれて残っている。実際どれほどの価値があるのか詳しいことは知らないが、これが縁で大阪天守閣(博物館)と姉妹城郭協定なるものを結ぶらしい。秋の協定調印式に合わせて交換展覧会をするらしく、グラーツでは豊臣期の絵画など、大阪ではエッゲンベルグに関する写真などが展示されるという。そこで、またまた日本人として声がかかったというわけ。これで2件目、江戸末期/明治初期に日本に渡り多くの写真を撮ったやはりこの州出身の写真家の紹介展も今年東京のオーストリア文化フォーラムで予定されていて、これにも参加依頼があった。いずれも今年、オーストリア―日本文化交流年という祭り事の一環事業だが、普通ならそれどころではないはずなのに、加担することにした。
一つのことにしか集中できない身としては大変な冒険となる。自分でも判断のつかない生涯の掛買なき体験の深淵に潜む真実に立ち向かっていくような創造的自滅的行為とは比較にならないが、それでもいいかげんなことはできないという意味で。

清書が出来上がってきたが、それを日本語に訳せずにいる、不可能というのではなくて、言葉を声を、叫びを、25年前の今日をもう一度蘇生させることに耐えられないものをまだ抱えているという意味で。