2009/02/27

しんてんち

シドニーから帰った当日はうまくいったと思ったのに、二日目にはやっぱり時差ボケ発生。24時間寝れずの時を越えてすでに36時間、意識朦朧、でも眠れないという最悪状態、そして今寝てしまうとボケが長引くということでフラフラしながら書いている。

それでも買い物やクリーニング屋に出かけた。そして再び、ヨーロッパ憂鬱世界に戻ってきたことを確信した。どうやら僕の顔が平家蟹といわれるほど怒面になってしまったのも、この長いヨーロッパ生活のおかげかもしれない。シドニーの人々の素朴な明るさは「旅」というプラス感を差し引いても十分あまる。一度は「移植」の地の候補にもなったのだが歴史がないとか、刺激がないとか何かと「否定的」な自己洗脳で没になった。もうすこし旅の余熱が冷めるまでまたねばならないが、それでもしばらく住んでみようかと考えだしていることは確か。

2009/02/26

good bye sydney

昨日SydneyよりGrazに帰ってきた。
一言でいうとそれはとても楽しい「観光旅行」だった。展覧会も東京展と比べるとコンパクトな感じでいい意味で別の印象を受けた。とりわけ僕の展示は明るい広場に移動、作品が違って見えるという発見もあった。
何がよかったかというと、一様に人間がおおらかで明るく、親切、食べ物も豊富でおいしいし、これはひょっとするとしばらく生活する場になるかもしれないと思ったほどだ。時間の余裕がなかったのでゆっくり観光はできなかったが下見調査的な意味では十分、次回訪問の楽しみを残してきたような感じだ。

時間がなかったこととホテルのネット料金が高価ということでブログは諦めた。その代償としてpicasaアップをした。

http://picasaweb.google.co.jp/sf.furuya/Sydney2009#


とりわけ今回の旅での収穫は、Queen Victoria、A-380といずれも巨大な建造物を目の当たりにして、人間の偉大さというか、寄って集ってとてつもないものを作ってしまうそのエネルギーと想像力に感動したことだ。

2009/02/17

japanese style




2009/02/16

sydney


夜9時半にSydneyに到着、小雨、20度前後と肌寒いほど、迎えに来てくれたキュレーターのベック女史も開口一番「クレージー」。

ホテルも7階で正面がシドニー高層ビル街らしいが街の様子などよく分からない。時差10時間、機中ではほとんど眠っていたためか疲れなどまったくなく、グラーツからちょっと近くの街に出かけてきたような不思議な気分。明日が楽しみ。

2009/02/10

遠くへ

つい先日、メキシコから又々ワークショップへ来てくれとの連絡があった。確か、2年前の秋に最初に話があって昨年の今頃行く予定になっていたが秋に延期し、そして今回の催促となった。が、正直なところ「遠くへ」いきたくないという単純だが強い気持ちもあって結局今回も断った。何十時間も飛行機に乗って、乗り換えてと考えただけでどっと疲れがでてしまう。まして最近メキシコでは麻薬絡みのマフィア抗争でアクションフィルム顔負けの白昼市街戦が頻繁に起こっている。危険や事故など顧みず売れ筋のおいしい獲物を狙って世界の秘境や極地を飛び回る健康青年冒険家の軽腰がうらやましい。

さて、今日は郵便物の局留めや新聞の転送などと留守中用の手続きをすませた。一人住まいなって10日間も家を留守にするのは初めてのこと、これまでは義母のおかげで何ら気にする必要もなかったことがこれからは些細なことまですべて処置対策をとらなければならない。何となく「この家」に引き留められているような磁力を最近強く感じてしまう。

メキシコ行きは正式に断ったわけでも諦めたわけでもない。今年は無理だと知らせたが、こちらが希望していた10人の参加者も決まったらしく、皆実現することを楽しみに待っているとの返事だった。ひょっとしたら、来年は人や家の呪縛から解放される年になるかもしれない。そして僕なりの『遠くへ行きたい』番組がスタートするかもしれない、ひょっとしたら。『ゲバラの道』とかいって……、売れ筋かも。

2009/02/08

simoda

「想像を絶するほど巨額な帰国用の旅費調達は無理だし、どうせ田舎に帰っても仕事があるわけではないし、丁度ここで写真家としていい職も見つけたし、得意の英語と日本語も重宝されるというわけで、将来のことを考えてここ東アジアに留まろうと考えています」 

下田

およそこのような内容の手紙を19歳のMichael Moser がAltaussee(オーストリアのシュタイアーマルク州にある湖畔の村)の両親に江戸から送ったのは1872年の6月、明治5年のことだった。彼は1868年、15歳で写真家の助手として当時のハプスブルグ帝国が実施した東アジア、南アメリカ踏査団に参加、69年秋に横浜港に着いてから1877年故郷に帰るまでの8年間日本の各地を旅行しながら写真を撮った。

日本では下田生まれの下岡 蓮杖が1867年に45歳で横浜弁天町に写真館をひらいている、これが関東での営業写真館の一号と言われている。そのころ写真館が数多くあるわけもないし、年代を考えると、横浜、鎌倉、横須賀などの写真をとっているMoserが写真館を訪ねたり直接下岡に会った可能性もありそうだ。

下田

丁度今年はオーストリア・日本文化交流の年らしく、Moserがグラーツを州都とする州の出身者ということもあり、市の文化局から小さな展覧会の企画のはなしがあった。彼の日本訪問と写真と、日本からのこのこ出かけてきた僕の放浪歴と写真と重ねて東京のオーストリア文化センターのロビーあたりで展示したいということらしいが、ちょっと比較できるようなものではないし一度は断ったが、知人が関与しているということで比較の度合いを落とすという条件で協力することにした。その当時すでに何人かの外人写真技師が日本を訪れているし、被写体もほぼ似たようなものが多いいと想像できるが、1985年にカメラ・オーストリア誌で彼の作品を掲載するというので資料を調べている段階で「下田」の写真を見つけて大変興味を持ったことを覚えている。下田が僕が育った村のいわば行政管轄本拠地であり子供のころから時々出かけることもあったし、写真に写る山の記憶がはっきりと残っていた。親父の代理で談合入札に参加してゼロの数を間違えて取ってはいけない工事を受注するという大失敗をやらかしたのも下田の土木課事務所だった。

無理にということもないが、やはり細い糸でつながっているような気がしないでもない。かなり立派なMoserのオリジナル・アルバムを手にした記憶もあるし、きっとまだ日本でも知られていない彼の写真をこれを機会にちょっと詳しく調べてみようかとも考えている。特に、いかなる経緯でオーストリアの片田舎からでてきた20代そこそこの若造gaijinが明治天皇を撮影するに至ったのか知りたいものだ。

2009/02/07

early , earlier, earliest

Andritzまで、土曜の朝とあって市電のターミナル辺りには人出も多く、それだけでも、訳なくうれしさがこみあげてくる、厭世気分に陥っていたひと頃とは大違い。火曜と土曜日には小学校前の広場が朝市に変わる。近郊の農家の直営販売、野菜が主だが、ソーセージやコイやマス、もう少したつと花やも出揃って買い物客で賑う。自分の家で作ったものしか売ってはいけないことになっているらしい。


さっと一回りしたが、新鮮なものなどあまりなく、きっと地下か冷蔵小屋あたりで保存してあった昨年ものだろう、いずれも少々くたびれ気味の野菜やリンゴ、衝動買いすることもなく向かいのタバコ屋へ、yellow gauloisesを3箱、これが一日のノルマ。吸いすぎとは常々思うが止められない、365日一日も欠かさないのだからその費用もばかにならない、が、そんな統計とか年間費用とか考えても意味がない。今日の箱には「Raucher sterben frueher.」とある。「喫煙家は早く死ぬ」、反対側にも「喫煙は死をもたらす可能性あり」と、朝から死に直面したようないやな感じもするが、まずは一服。最大の頼どころは親父、ガンになることもなく85歳のある朝、起きるのをやめたその前日まで吸っていたという事実だ。僕が貰って来た唯一つの遺品は、近所の雑貨屋の名前が入った使い捨てライター。それにしても、早く死ぬという断定表現が気に食わない、おまけに早くの比較対象が欠けているではないか、などと不平分子の独り言。

やっぱり思惑通り行かなかった、というかここでもしょうない性格がでてしまった、意志薄弱というか。機中の楽しみにととっておいたはずなのに、やっぱり手を出してしまった、もうおしまい。というわけで今日も一日読書。

2009/02/06

afternoon snack

清々しい朝が続いた、ちょっとどうなっているのか自分でもよくわからない、長い間へばりついてた苦石が突如はげ落ちたような軽快さ、それとも目から鱗が、か。きっと明るい光や鳥達の活戯のせいかとも思うが、その餌の家の真下に眠るコンスティのことを想うと、一層気分が晴れる。寂しくないようにと鳥の集まる藪木の脇に葬った。やがて同じように土塊に覆われる己の亡骸のありようを想像しながら、やっぱり土葬にしようかな、はたして何処の、などと考えているとまた楽しさがこみあげてくるのだから、これはちょっと怪しい。

訓練のたまもの、「下」は一気に読み終わった。さっそく一番たのしみにしていた次のだんにとりかかりたいところだが、これはシドニーへの機中でと決めた。何しろ30時間もかかるのだから。今回初めて便器のカバーみたいな、何と呼ぶのか、とにかく肩の枕みたいなものも買ってみた。いまだに正直いってあまり乗り気ではないが、これも旅が特別好きでもないという性格のためだろう、35年以上もヨーロッパに住みながらローマもアテネもマドリッドも知らないのだから。

2009/02/05

『自宅の・・・』

久しぶりの晴天、それも朝から日が沈むまでだ、屋根からポタポタ垂れる雪解けの音が何となく春の近いことを告げているようにも聞こえて気分がいい。庭 にでてみると、天日が雪に反射して世界全体がひときわ明るくなったような感じ、さしずめ色温度2万ケルビンの明るさとでもいえるか。スズメやシジュウカ ラ、クロウタドリなど最近ほぼ籠のない家鳥になりつつある野鳥等も今冬は主人のまめな接待で丸々太っているし、観音開きの窓から迎春歓喜の混唱が飛び込んでくる。


これほどすがすがしい朝を迎えたことがかつてあっただろうか。なんて、すこし感傷的になったりしたが、一人で生活しているとこんな自由なことも可能だということだろう。さて今日は、と思いをはせたがさしあたりしなければならないことも思いつかないし、ちょっと気になる暗室作業に掛るには意思の純度不十分。明日々々と言ったり純度不十分と決めつけるのも、所詮「怠けもの」というしっかりした大元があるためだろうとは察知しているが、それをあえて責める気持ちもない、まさに本物の怠け者。というわけで、昨日読み終わった「上」を棚にもどして「下」を続読することにした、しかも一日中だ。散歩という趣味が全くないので、せいぜい庭に出て、ついでに地下を覗いて異常がないか調べたり、飛行機雲を眺めたりしてまた戻る。やっぱり空の背骨のように見えてならない。昼食は海の幸スパゲッティーで早く済ましてまた戻る。ちょっと病みつきになりそうな気配が気になるところだが、時のながれということもあるだろう、猛暑のシドニー戦地へ赴くまでの体力つくりと思えばまた気が休まる。さっとこれを書きあげまた戻る。

2009/02/04

帰港?

一夜干しの鯵のヒラキとウイーン在住中国人製豆腐、ハンガリー産しいたけ、それに三河産の海苔と……。 中途半端に遅い昼を外で食べてしまったのでちょっと迷ったが一念発起、カリフォニア産錦を2合半といでねぎを刻んでと、日本風夕食をつくることに決定!

一度中断した作品集制作になかなか戻れない、明日から再開などと言ってはみるものの明日になればまた明日、のどちんこにささった小骨のように一日中気になって仕方ない。一つのことにしか集中できない不器用さのことが思われて、なんとかこの性格を大改造したいと願うが、さてどこからと考えるとすぐに行き詰まるありさま。

最近友人が何冊かの本を送ってくれたので、雑用のつなぎ時間には極力読書にうちこんでいる。きっと子供の頃の生活環境から来たのだろうが、一人静かな環境を必要とする読書という習慣は身につかなかった、そして「外国」生活に入ってからさらに日本語が疎遠になった。でも、この数年来日本との「文化交流」がにわかに活発化しつつあり、それに合わせるように日本語への接近が急テンポで進んでいるような感じがしている。写真表現も結局元をただせば言語、思考の構築は言語によってなされるので、いかに言葉で表せないような表現といっても、もうすでに言葉をつかっているわけで、写真を感じ知覚するその内容も言語に還元されて認識されるわけだから、やっぱり言語なしでは写真も意味をなさないということだろう。

あまり理屈に走るとボロがでそうだが、写真の術を全うするためにはやはり言語に長けるべきという些細な結論に達したというわけ。そうするとつなぎの間の読書も次の作品集のための準備作業といえないこともない、まことに理にかなった気休めとなる。ひょっとしたら和洋折衷らしかった?作風に変化が生じるかもしれない。

やっぱり日本食が最高、この何ともいえない開き鯵の香りと味、ご飯に海苔をのせてそれを箸で包みとり醤油にちょっとつけて、ご飯の熱気と海苔の香りがうまい具合に溶けあって、あっという間に三杯、今日は夜食なしだ。

2009/02/03

last spring?


「学芸員、学芸員に刺される」がまだ離れない、そんな朝を迎えてブラインドを開けたら真白、夜中に大雪が降ったようだ。はたして車がガレージから出るか心配したが、なんとかだましながら成功、天気予報を気にしつつ、でも今日中にラボに注文しないと間に合わないということで一路ウイーンへ。もうグラーツに写真ラボがなくなってから久しい、とにかくデジタル時代、ラボの需要などまったくなくなったということらしい。往復400キロ、丁度中央線に乗って上諏訪までプリント注文に出かけて帰ってくる距離と同じ、東海道線でいうと藤枝までの往復。えっと思うが渋滞なしの高速で2時間弱、ついでに次の作品集のために清書仕事を依頼した女性を訪ねて、日本食を買い込んで、魚屋を回ってと充実したウイーン行きとなった。


ロンドンではたった20cmほどの雪でほぼすべての機能がマヒとのことだが、さすが雪の国、周りは大雪でも高速スイスイ、交通量も少なく気分爽快、なんとなく心が弾むような不思議な心持、ブラームスが59歳の時に創ったピアノ小曲が飛び込んでくる冬の白黒風景のなにかしら心悲しい気配に凛々しさを与えているような感じ。学芸員の一人を直接知っていたし、僕とクリスティーネの「関係」と僕の「事件」との「係わり」如何やと半公開質問状らしきものをもらったりしていたので、なにをいわんかやと思ったりした。質問には一年たった今でも答えてないがもうこたえる必要も意味もなくなったと思っている。



本当に珍しくわりと新鮮なアジを見つけた。帰ってさっそくひらき造り、さばいてしばらく海塩水に漬けて乾かしてグラーツひらきの完成だ。ちょっと沼津のホテルで食べたひらきには敵いそうにもないが、なにはともあれ立派に開き直った答えを数日後には期待している。

2009/02/01

performance

手元にパンフレッドがないのでこの催しのタイトルなど詳しいことは分からないが、細雪の舞うなかパーフォマンス・アーティストでもあるウイーンに住む友人を訪ねて会場に出かけた。とにかく、ダンスや寸劇?や展覧会などもあってそれらしき職業にぴったりといった若者たちが集まっていた。こんな動機でもないと最近、展覧会や催し物にあえて出かける事もなくなった。展覧会の梯子をして飲み屋に繰り出し早朝まで論議といった時代はもうきっと帰ってこないような、場違いなところにいるようなちょっと寂しい気分が過った。


ショート・パーフォマンスが終ったらしくロビーに人が流れだし、その中に「東洋人」を発見、その日の心調にもよるのだが何故かその人と話したくなった。友人と一緒だったこともありさっそく実行、その人は主催者側から招待されて高知より出かけてきたという。早速名刺をもらう、挨拶談義も一段落した頃、「鶏鍋でも食べに」と誘ってみた。一応被招待者、すべてのパーフォマンスを見なければいけないとは言いつつ鍋の魅力に心は揺らぎといったパーフォマンス、中をとってもう一つ見てから出かけましょうということになった。


高知といえば「カツオ」ぐらいしか思い当たらないが、最近読んだ本でも70年代消息をたちやがてピョンヤンで「よど号」メンバーの一人岡本武の妻となっていたことが判明した福富貴美子という女性の出身地も高知だったと知った。これといった産業もなく人口35万ほどの街もどんよりした雲に覆われたような雰囲気、少なくとも文化的側面から見たらそんな感じかなという印象を受けた。日本のどこの地方都市でも同じようなもの、とにかく本当の意味で日本にはヴィジョンが不在、行く先が分からないという大病に病んでいる、病の囲いのなかでぐるぐる回りしている、という感じではないかとしばし鍋を囲んで憂国談義。高知県立美術館館長の少し疲れた様子も旅のせいだけではなさそうだ。